鹿島アントラーズと英雄ジーコ
2016年、FIFAクラブワールドカップの決勝。スタジアムに出現した巨大なフラッグ。そこには、『スピリット オブ ジーコ』の文字と共に、英雄ジーコの顔。
他サポながら泣きました。
この感動を伝えたい。というわけで、ジーコについてのコラムです。
日本代表監督としてのジーコ
ジーコはサッカーファンであれば、知らない人はいません。ですが、今回はライト層向けに、掘り下げていきたいと思います。
日本に広く知られているサッカー関係者としてのジーコは、日本代表監督の肩書でしょう。ジーコが日本代表監督に就任したのは、2002年7月22日、以降、2006年のドイツW杯の本大会まで指揮しています。
選手時代はブラジルのスーパースター
ジーコは、選手時代は世界のスーパースターでした。当時のブラジル代表は、歴代最強の黄金のカルテット(4人衆)と呼ばれ、中でもジーコはその筆頭であり中心選手です。
日本代表監督に就任したジーコは、選手時代の経験を生かして、いわばブラジル流のサッカー哲学で、日本を指揮します。
選手の自由に任せた創造性のあるサッカー。しかも練習風景は、全てオープンしました。隠す必要は何もない、我々は強いんだという、強烈な意思表示です。マスメディアの人達からすれば、ありがたい存在だったと思います。練習風景などは撮り放題でしたから。
日本版黄金のカルテット
当時、もてはやされたのは、日本版 黄金のカルテット です。監督であるジーコになぞらえていることは明白です。さすがに本家のブラジル代表の黄金のカルテットとは比較できないのですが、それでも、かつての代表において、これほどプレーに創造性のある華のある4人を起用したことはありません。中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一を中盤に並べての同時起用です。
本音を言えば、メンバー表だけで、わくわくしました。
ただ、ちょっとだけ日本には早かったかも知れません。
サッカー王国ブラジルであれば、攻守のバランスとかでなく、最強メンバーを並べて美しく勝つ!という、哲学は通用したでしょう。各ポジションに世界最高峰の選手たちが揃っていますから。
しかし、ジーコ監督時代の日本では、ブラジル代表のごとく、は無理がありました。
ドイツW杯では、グループリーグで敗退します。
監督としてのジーコの評価
こう書くと、ジーコは日本代監督として失敗したと認識する人がいるかも知れませんが、決して、そんな事はありません。大陸大会である、アジアカップは優勝しています。
惜しむらくは、このときのジーコは、監督経験がありませんでした。初めて務めた監督が日本代表監督でした。その後、日本を離れて、欧州やアジアのクラブ監督を歴任。
2012年9月、再びジーコは来日します。
今度は、敵将の立場としてです。イラク代表監督として、W杯の予選で日本代表の前に立ちふさがりました。
敵将としてのジーコは頼もしかったです。以前とは異なり、練習時から報道陣をシャットアウトしました。戦術面でも老獪でした。当時はザッケローニ監督が日本代表を率いていて、アジアでは敵なしです。ワンサイドゲームに近い試合もありました。このチームの看板選手といえば、本田圭佑と香川真司です。それまでの対戦相手の監督は、要注意人物として、この2人を警戒していました。ですが、ジーコは、ボールの供給元である、ボランチの遠藤保仁を徹底マークしたのです。
ドイツW杯とは、別人のような采配でした。率直に、そのクレバーさは、日本代表監督時代に欲しかったです。もし、イラク代表を率いていたときのジーコなら、ドイツW杯でも違う結果を出せたかも知れません。
鹿島アントラーズのジーコ
ジーコは、代表監督として、日本のサッカーに大きく貢献しました。ですが、もし貢献度だけで語るならば、鹿島アントラーズの時代のジーコに軍配が上がります。
ジーコは鹿島アントラーズの誇り、そのものです。
ゼロからの挑戦
世界のスーパースターであったジーコは、サッカーの辺境ともいえる日本に来て、1部リーグですらない、チームに加入しました。理由は、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力を感じたから、です。とても夢のある話です。
しかし、現実は過酷でした。
あれほどのスター選手が、練習するために、1人で電車通勤です。練習場所は、河川敷。驚いたと思います。今でいえば、ヨーロッパのビッククラブ所属のスター選手が、そこらの河川敷で練習をするのですから。なかなか、あり得ない光景です。
ですが、ジーコにとっては、それよりも、チーム関係者の意識改革に苦労したようです。
当時は、Jリーグの始まる前ですから、今ほどのプロ意識はありませんでした。実際、どのぐらい欠けていたのかは、外部からはわかりません。ただ、ジーコは日本人にプロ意識を徹底させることに苦労していました。
これについては、少しだけ推測できます。
近年、Jリーグの監督をしていた指導者が、東南アジアや中央アジアなどのチームに招聘されることが増えてきました。そこで問題になるのは、主にプロ意識の欠如と言います。
特にFIFAランキングの低い国ほど、その傾向は強いらしいのですが、プロのサッカー選手である以上、日常生活から規律をもって、真剣にサッカーに取り組まないといけません。
それを修正するのが大変だと言います。
ジーコが来日した当時の日本のサッカーは、今のようにアジアでも抜きん出た存在ではありませんでした。信じられないかもしれませんが、アジアでも勝ち抜くは難しい、ぐらいの立ち位置でした。
何もない所から、とは言い過ぎかもしれませんが、プロのクラブとしては、よちよち歩きの状態から、常勝軍団へと変貌させます。ジーコの肉であり骨であり、精神の受け皿として、鹿島アントラーズは、見事に花を咲かせました。
Jリーグ開幕以降、最多タイトル保持は、鹿島アントラーズです。
世界ナンバーワンへの挑戦
その鹿島アントラーズは、2016年、FIFAクラブワールドカップの決勝の舞台に立ちました。世界の各大陸王者だけが出場できる大会で、見事、決勝まで進んだのです。
その大舞台に掲げられた、『スピリット オブ ジーコ』の巨大フラッグ。
言葉も通じない、異郷の地に降り立ち、サッカーの伝道師として、もてる全てを伝えたジーコ。その精神は受け継がれて、チームの選手、フロント、そしてサポーターまで伝播して、いつしかチームの伝統へと昇華しています。
まるで夢のような話ですが、気づけば、ジーコが心血を注いだクラブは、世界一を決める大会の決勝まで、辿り着いたのです。ジーコの創ったチームを、沢山のサポーターが応援しています。サポーター達が、スタンドに誇らしげに掲げるのは、『スピリット オブ ジーコ』の旗です。
サッカーは素晴らしいな、と思います。
ジーコの精神は、鹿島アントラーズというクラブで、伝統として生き続けるでしょう。Jリーグは100年構想を掲げています。今から生まれる子供達の中には、『スピリット オブ ジーコ』の巨大フラッグを、観客席で支えているかも知れません。
ジーコは、鹿島アントラーズの誇りであり、伝統そのものですから。